カネタの歴史 vol.1-徳之島出身の兄弟によって兵庫県尼崎市で新しい事業が生まれた

カネタでは、創立50周年を機に、カネタの歴史を「創立50周年記念誌」にまとめました。多くの方に読んでいただきたく、「創立50周年記念誌」の内容をご紹介します。今回は、創業前史から事業立ち上げに至るお話です。
創業期 人物写真

1.創業前史

第二次世界大戦(1941 ~ 1945年/昭和16~20年)終盤、奄美群島は沖縄に侵攻した米軍と向き合う本土防衛の最前線となり、全島が長期にわたって激しい空襲を受けた。島民は各所につくった防空壕の中で、なすすべもなく空襲が収まるのを待つしかなかった。

創業者の田袋猛(たぶくろ たけし)は、1943(昭和18)年、徳之島の母間(ぼま)で生まれた。

3年後の1946(昭和21)年、弟の勇(いさむ)が誕生。父・吉二は、1939 ~1942 年(昭和14~17年)頃、尼崎市久々知の川崎重工の下請け工場で働いていた。ここには島の人を中心に12名ほどの従業員がいた。偶然だが、この地はのちに猛が創業する場所の近くだった。吉二が島に帰ってきたのは戦時中だが、詳しいことはわからない。

兄弟が幼い頃に父が亡くなり、母・キクが大島紬を織って生計を立てていた。猛は中学校時代バレーボール部に所属、スポーツマンで成績もよかったが、おとなしい性格、勇はやんちゃ坊主だった。

猛は鹿児島実業高校への進学で島を出る。その後、鹿児島で機械設計の職に就く。勇の高校卒業を機に親子3 人で尼崎に移住する。猛は勤めていた会社や自宅で製図の仕事をし、勇は中外炉を扱う仕事をしていた。

2.事業立ち上げ(1968年)

1968(昭和43 )年、兄弟と叔父の徳次郎(母キクの兄)、兄弟の母方のいとこで日本造船を退職したばかりの栄元末次(えいもとすえじ)の4 人で事業を始める。

栄元は高校卒業後此花区桜島(現在USJ のある場所)の日立造船で仕事をしていたが、島に帰ろうかと悩み、叔母であるキクに相談した。それが創業のタイミングと重なり、製図やガスのことがわかるならと、創業メンバーの一人となる。

大阪万博(日本万国博覧会1970年3 月15日から9 月13日まで大阪府吹田市で開催)の影響で、日本中が好景気に沸いていた。

創業当時、会社名はまだなく、尼崎市戸ノ内町にあった共同工業に間借りして、共立機工の仕事を受注し、土木系の巨大な構造物の原寸大の型枠をつくっていた。

3.尼崎と奄美の関わり

尼崎を含む阪神間の湾岸エリアには、戦前から繊維・製鉄関連の大手企業の工場があり、多くの働き手が求められていた。沖縄や奄美から着く船があり、港の近くに住んで仕事をする人が多かった。

戦後も出稼ぎや集団就職で尼崎に定住した人を頼って、島から尼崎に来て周辺に住む人も多かった。今もこれらの地域には、徳之島を含む奄美群島や沖縄出身の人が多く住んでいる。