カネタ50年の歴史③
カネタの歴史 vol.3-工場移転と「カネタ鉄工株式会社」として法人化。鉄工所から精密機械部品製造へ。
カネタでは、創立50周年を機に、カネタの歴史を「創立50周年記念誌」にまとめました。多くの方に読んでいただきたく、「創立50周年記念誌」の内容をご紹介します。今回は、成長期(1980-1990)のお話です。
1.株式会社瑞光との取引をきっかけに精密機械へシフト
1980(昭和55)年、藤崎藤夫が「カネタ鉄工所」に入社した。藤崎藤夫は、創業者である田袋猛の弟、田袋勇の同級生で、田袋猛とも幼馴染だった。入社のきっかけは、2人に誘われてのことで、勤めていた川崎重工関連の会社を退職しての入社だった。藤崎藤夫は入社後、技術者として溶接を担当することになる。
また、現在も主要取引先である株式会社瑞光との取引が始まる。仕入れの面では、材料卸売会社の栄鋼機工から材料購入が始まった。
瑞光は紙おむつなどの衛生品を作る機械の世界的メーカーである。瑞光との取引がきっかけでのちに精密機械部品製造へシフトすることになり、仕事の幅が大きく広がった。
2.摂津市鳥飼中へ工場移転・法人化
大きな受注物の組み立て作業の依頼が増えて、工場が手狭になったため、1983(昭和58)年、摂津市鳥飼中の工場へ本格移転をする。同時に「カネタ鉄工株式会社」として法人化した。摂津市近隣には様々な企業があり、摂津市商工会鉄工会のネットワークにより、取引先を増やすことができた。
●当時の主な取引先
当時の主な取引先としては、クリスタルエンジニアリング株式会社、株式会社瑞光、株式会社サンコーエンジニアリング、太陽鉄工株式会社(現株式会社TAIYO)、機設エンジニアリング株式会社、隆伸鉄工所、株式会社オーエヌ機械、株式会社ネオテックなどがある。
3.御巣鷹山の日本航空123便墜落事故と機設エンジニアリングとの親交
当時、カネタ鉄工株式会社に隣接していた会社はR社であった。そのR社の社長と専務が、御巣鷹山の日本航空123便墜落事故(1985年8月12日)で亡くなった。
社長の田袋猛は、カネタの取引先であり、良きライバルであった機設エンジニアリングの社長の森滋春氏にR社の支援を依頼した。その結果、森社長はR社の事業の一部を継承することとなった。
機設エンジニアリングは、カネタ鉄工株式会社の隣に事業所を持つことになり、森社長と田袋猛は、関係性を深めることになった。
4.レーザー機1号機導入
1988(昭和63)年11月、レーザー機1号機を導入した。これはパナソニック製で、レーザー機導入はおそらく関西初だったため、たくさんの企業が視察に来た。約1億円の投資であった。
1990(平成2)年、田袋勇が結婚を機に、カネタの子会社としてエイコーシャーリング(のちに有限会社タブクロに社名変更)を設立。エイコーシャーリングは栄鋼機工の仕事をメインに行い、シャーリング(板金の切断)や材料屋をする会社だった。
●現カネタ会長佐多はつみの、田袋猛・勇兄弟に対する思い
創業者の田袋猛と弟の勇は、おとなしい兄と3歳下のやんちゃな弟という、どこにでもいる兄弟だった。
本稿の著者である私・佐多はつみ、は、父方のいとこにあたるこの2人と兄妹のように育った。
休日になると朝から迎えに来てもらって、兄弟の家に行って一緒に遊び、体が不自由だけど料理や洋裁の得意な伯母の作るおやつを一緒に食べ、夕方まで遊んで、おんぶされて送ってもらうのが恒例だった。
それぞれが大人になり、兄弟は2人で独立しカネタ鉄工株式会社の創業をなし、弟が結婚して兄から独立。有限会社タブクロを設立した。田袋猛は事あるごとに弟を支援していた。その姿は妹のように育った私の目から見ても本当に仲のいい兄弟であり、兄に甘える弟の姿だった。
その弟が難病指定の病にかかり、やむなく会社(有限会社タブクロ) をたたむことになる。
しかし、その準備のさなかに田袋猛は亡くなった。
どれほど心残りだったろう…。
私がその業務と猛の弟への思いを引き継ぐことになったことも、私たち3人の縁だと思っている。
佐多はつみ